私らしく、東京で農業を。
農業経営で感じた、生まれて初めての地元愛

川名桂さん/ネイバーズ ファーム
農園所在地:東京都日野市
就農年数: 7年目
(雇用就農期間約3年、研修期間約2年、独立就農3年目)
生産:トマトを中心にブルーベリーや葉物野菜、ラディッシュなど

農業に興味を持ったきっかけは、発展途上国でのボランティア。
農業は人が営みの基盤だからこそ、興味がわいた

「ネイバーズファーム」の農地は、東京・日野市の住宅街の中ある。その代表として農業経営を手掛けるのは川名桂さん(29歳)。2018年に「都市農地貸借円滑化法」が施行され、市街の生産緑地を借りて新規就農することが可能になった。川名さんは、この制度を利用した第一号新規就農者である。

きけば東京大学農学部出身の彼女。卒業後の道には数多の選択肢があっただろうにもかかわらず、なぜ、就農の道を選んだのだろうか。

「大学3年生の学部選択の時まで、まさか自分が農学部に進んで、今こうして農業を営んでいるとは思ってもみませんでした。当時興味があったのは、国際機関などでの仕事。海外実習にも行きたいし、何をこれから学んでいこうと考えた時に、海外で役立つのは理系の専門知識ではないかと思ったんです。そんな理由から農学部を選択し、学んでいくうちに面白みを感じるようになりました」

新しい知識との出会いは、何事も楽しい。別の分野であっても面白みを感じていたと思う、と笑う川名さん。そんな彼女を、農業に惹きつけたのが発展途上国でのボランティア活動やフィールドワークだった。貧困にあえぐ農村を訪問し、「農業の知識や技術がないことが、貧困から抜け出すきっかけを奪っている」という事実に直面したのだ。

この経験から「農業は人の営みの基盤だ」と考えるようになったという川名さん。卒業後の就職先も農業法人を選択し、そこでは、福井県における大規模農場の立ち上げに携わった。そしてここで徹底して学んだのがトマトづくりだ。

「農業法人の仕事ではトマトづくりを基礎から学び、農業経営についても学ぶことのできた貴重な2年半でした。その中で、次は自分自身でゼロからすべてをやってみたいと思うようになり退職することを決めました」

次の道を考えていたときに、川名さんの耳に入ってきたのが「東京でも農業ができる」という情報だった。地方のように大規模ではないが、小さな土地で地域住民から喜ばれる野菜などを作っている人たちが東京にもいると聞いたのだ。
東京での生活が好きだという彼女。どうしても都心に近い場所で地産地消が叶えられる農業をしたいという思いがあり、東京での農業経営を考え始めた。

しかし、一般社団法人東京都農業会議に農地についての相談にいったところ、彼女の前に立ちはだかったのは制度の壁だった。当時は都市部の生産緑地での就農しづらく、希望するような農地が見つからなかったのだ。

「見つかったとしても東京の山奥などの土地。それでは自分の思うような農業はできないと思いました。これも違う、あれも違うと、そんな状態が2年ほど続き、なかなか理想の農地に出会えずにいたところ、新しい法律ができて、生産緑地での就農がしやすくなったんです」

法律の施行を機に、彼女が出会ったのが実家のある日野市の農地だった。このとき、熱心に農地探しをサポートしてくれたのは、東京都農業会議の松澤龍人さん。現在は、彼の周りに集う新規就農者などを「東京ネオファーマーズ」と呼び、ゆるやかなコミュニティを軸にマルシェなども開催。東京新規就農の生みの親ともいえる人物だ。
その彼の尽力もあり、川名さんは2反ほどの土地を30年の契約で地主から借りることができた。いよいよ日野市で農業をできる体制が整ったのだ。

念願の東京での農業がスタート。
計画通りになんていかないところが、面白い

農地探しに苦労した川名さんは、その間、東京・清瀬市の農家で週5日間、アルバイトとしてトマトづくりの研修に通っていたという。
ネイバーズファーム設立して2年目までは、新規就農者定着支援事業の補助金がおりず、ビニールハウスを建てられなかったという彼女。2年目の後半、ようやくビニールハウスが完成し、清瀬でのアルバイトもここで終了。やっと自分の畑に集中することができるようになった。

3年目に入った今年は、農地で3つのハウスを使い、養液栽培のトマト、土耕の葉物野菜などを多品目栽培。現在、売上の9割はトマトが担う。

主力となるトマトの栽培は最新農法だ。土の代わりにヤシ殻を使う養液栽培で、床には太陽光の反射率が高い白いシートがはられ、屋根やカーテンは自動開閉式。温度コントロールなどはITシステムで管理している。

この栽培方法を選択したのは、実に都心ならではの理由だった。住宅街には、大きなトラクターが入れるだけの幅広な道が少なく、ハウスの中もそう広くはない。さらに、農地が住宅地のそばだけに土埃などでクレームが寄せられるリスクもある。であれば、最初に農業法人で経験済みだった養液栽培をしようという結論に至った。

「養液栽培は、クリーンで、重機を扱う必要もなく、重いものを担いで運ぶようなシーンも少ないので、女性の農業者との相性が良いんです。狭い土地で売上をあげたいのであれば、こういった設備を入れるのがベスト。また温度や湿度など、数字からロジカルに計算して環境管理をしていくプロセスは、私には合っていました」

数字が得意だからこそ、あらゆるデータを集め、経営計画の精度も高めてきた。それが、現在の順調な農業経営に繋がっている。

商品販売は7割が直販(地域の直売所やスーパーの地場野菜コーナーでの販売含む)、残りが地域の流通業者への販売だ。直販の中でも大きな役割を果たしているのがファームの前に設置してる自動販売機。この自販機だけで、直販の半分以上を売り上げる。

「野菜をお客さんが手に取るところまで、自分の目に入るような農業経営をしたいと思っていました。だからこそ、直販にはこだわっています」

「手に取るところまで目にはいるように」というこだわりは、農業法人に勤務していたころの経験からだ。前職では大規模農場でたくさんのトマトを作り、全国に出荷していた。時折、東京で自分たちの作ったトマトに出会うこともあったが、それはもう古くなっていることが多かったのだという。

「トマトは日が経つにつれ、糖度が変わらなくても酸味がどんどん薄れていきます。私たちの作っているトマトの本当の美味しさは、お客さんには伝わっていないんだな、と思うとなんだか悲しかった。売り場まで新鮮に、大切に届けたい。そう強く思うようになりました」

現在、ネイバーズファームの野菜を買いにきてくれる人はリピーターが多い。それも、野菜の種をまいたところから、成長して食べられるようになるまでの成長過程も見ている地元の人たちだ。畑の様子を伺い「あれはいつ販売になるの?」と声をかけられることも多いという川名さん。そんなやり取りが何より楽しいという。

「ネイバーズファームは、その名の通りお隣の農園でありたいんです。地域の行きつけであり、採れたてを届けることができる農園。地元の皆さんが美味しいと喜んでくれる野菜を作っていきたいと思っています」

現在は従業員1名を雇用して経営をしているが、地域の人たちから「手伝いたい」という要望をうけて、ボランティアに来てもらうこともあるのだとか。
農業経営をスタートして3年目に入り、順風満帆に見える川名さんに、それでも苦労はあるかと尋ねてみた。すると答えは、「もちろんあります」だった。

「ハラハラすることばかりです。病気が出たり、実が割れてしまったり。なんで?と思うこともたくさんあります。でも、何事も計画通りにはいかないもの。予想通りだとそれはそれで、面白くない(笑)。問題がたくさん起こって、それをなんとかクリアしていく。それがものづくりの醍醐味かなと思っています」

地元のない私に、農業が地元を作ってくれた。
今度は私が、この場所でまちづくりをしてみたい

実家近くの日野市で新規就農(独立)を叶えた川名さんだが、実は、自身が日野市で過ごしたのは15歳以降。生まれてすぐにニューヨークに引っ越し、幼少期はオランダのアムステルダムで過ごした。その後10歳ころに帰国し、日野市に引っ越すまでは埼玉県に住んでいたのだという。

「私には故郷、地元というものがないんです。いろいろな場所に移り住んで、各地でいろんな人たちが地元愛を持っているのを見て、羨ましいような気持ちがありました」

しかし、日野市で農場を経営するようになって、少しずつその地元愛が川名さんの中に芽生えてきた。「同じ場所でこんなに長く暮らしたのは初めて」という彼女。その時間の中で、ネイバーズファームを通して地元の人との関わりを持つことができた。そして、自ら手掛けた野菜を喜んでくれる瞬間に多く立ち合ってきた。それが、「この場所をもっと盛り上げていきた」という次の目標をつくりあげていた。

「ここでの農地拡大は難しく、借りている30年をいかに有効的に使うかが大切になってきます。今後はコスト削減やブランド化、品質向上による単価UPなどの施策をとりつつ、飲食事業や加工品の販売なども手掛けていけたらと思っています」

「トマトを廃棄したくない」という思いもあり、加工品の開発にはすでに乗り出している。そこからさらに、トマトソースをふんだんに使った料理を提供する飲食店など、人が集まる場所づくりにも挑戦したいと川名さんは言う。

「例えば2階に急冷工場を作って、1階はピザ屋。そして周囲は、この景観や水路を使って、家族連れや地域のお年寄りの方なども気軽に、心地よく集うことができる場所にするなど、夢は膨らみますね。東京は引っ越しの多い街です。だからこそ、今度は私がここで、地域の皆さんに、地元っていいな、と思ってもらえるような場所を作っていきたいんです」

トマトづくりにおいて目指すのは、甘いだけではなく、ほどよい酸味があり、ぎゅっと濃い旨味のあるトマト。それを新鮮な状態で消費者に届けることだ。都市農地賃借法の制定による「生産緑地」賃借での新規就農者第一号として、次につながる実績をと川名さんは、高い志しをもって農業に向き合っていた。

就農を考えている人へのメッセージ

東京のような都心でも農業ができます。ただ生産緑地での就農においては、使用できない助成金制度などもあるので注意してチェックをしておくことをおすすめします。
農業経営はものづくりであり、企業経営でもあります。単に農作業が好きというだけでは続かない。ビジネスとして長く続けられる経営計画をしっかり立てて、スタートすることが大事だと感じています。