2022.03.29

農業と福祉、動物と人間が支え合う牧場で就農。
変化球で農業に向き合う、若者の挑戦

松尾穂乃香さん/ 社会医療法人正光会
就労継続支援A型事業所 さんさん牧場
農園所在地:島根県益田市
就農年数:2年目 2020年就農
生産:ホウレンソウ、キュウリ、トマト、バタフライピー、葉物野菜

米農家出身の松尾さんが就農したのは、
障がい者就農支援施設でもある、観光牧場!

島根県益田市にある「さんさん牧場」は、全国でも珍しい、医療機関が運営する観光牧場だ。運営するのは社会医療法人、正光会。2019年に誕生したこの牧場は、地域に開かれた観光牧場であり、ホースセラピーを行う牧場であり、さらに障がい者の就労支援施設(継続支援A型事業所)でもある。

この牧場の農福連携スタイルに共感し、2020年、ここで就農を果たした1人の女性がいる。同じく島根県の松江市で米農家を営む両親を持つ松尾穂乃香さんだ。

牧場に就職した松尾さんは、農業大学卒の知識と経験を生かして、牧場における農業事業部門のリーダーとして、野菜栽培とスタッフの農業指導を担当。現在は、23aのハウスで、ホウレンソウやトマト、キュウリなどの一般的な野菜と、バタフライピーなどの珍しい野菜を栽培しているという。職業指導員として作業スタッフの指導をしながら、さんさん牧場の農業事業を支えている松尾さんは、なぜ、医療法人に就職という形で就農する道を選んだのか、そのストーリーを聞いた。

里山を守りたいと、農業高校から農大へ
動物と植物を学んだ経験を活かし、福祉の場での農業を選択

松尾さんの実家は、同じ島根県にある松江市の米農家だ。幼い頃から田畑が身近にあり、地元の農業高校へ進んだのは、「自然の流れ」だという。当時から、廃れていく中山間地域の再生に関心があり、耕作放棄地でも育ちやすいマコモダケの栽培研究なども没頭。「里山を守りたい」という思いは消えず、さらに勉強を続けるために東京農業大学のバイオセラピー学科に進学した。

大学時代に行った農作業やボランティアの様子
 

バイオセラピー学科は、「動植物を人の生活でどう生かすか」、「どう共生するか」を学ぶコース。当初は植物への関心が高かったが、次第に動物へも興味が沸いてきた松尾さん。3年次からは「動物介在療法学研究室」ゼミを専攻し、動物セラピーなどについて知識を深めた。

「動物に触れ合うことで、お年寄りや特別支援学校のお子さんが笑顔になって帰っていく様子を見たり、データで学んだりする中で、動物と人との共生に関わる仕事に魅かれるようになりました」

卒業しても動物と人の共生に関わりたいと、米農家の実家ではない就職先を探していた。その矢先、ゼミの先生から「さんさん牧場」を紹介されたのだという。

「同じ県内でも実家からかなり遠かったので両親は驚いていました。米農家を手伝ってほしいと思っていたはずです(苦笑)。でも、さんさん牧場は、医師や看護師ら医療従事者のサポートを受けたホースセラピーができる、全国的にも珍しい施設。動物と人が共生する場所で、自分が学んできたことを生かすことができる貴重な機会だと感じ、ぜひ、挑戦したいと、就職を決めました」

当時、牧場に動物専門のスタッフはいたが、農業に詳しいのは松尾さんだけ。そのためスタートしたばかりの農業事業に「職業指導員」として従事することになった。一見、動物との関わりはないように思えるが、牧場が運営する農園だからこそ、動物と人間が共生する農業を模索するという松尾さんの新たな挑戦がここで生まれていく。

農福連携スタイルで、
障がい者スタッフと目指した「循環型農業」とは

近年、「農福連携」と呼ばれる、さんさん牧場のような農業と福祉を融合させる取り組みには注目が集まっている。連携が盛んにおこなわれる理由の一つは、農業の仕事内容の多様さにある。土づくりや種まき、収穫、袋詰めなどの仕事は、障がい者の特性や能力に合った作業を見つけやすく、福祉との相性が良いという。また、もう一つの理由は、農家の担い手不足と障がい者の就職先の不足という双方の問題点を補い合うことができるという点だ。

さんさん牧場は元々、馬文化の残る益田市で、障がい者が働くことのできる“観光牧場”として設立された。ここで雇用された障がい者スタッフは、馬の世話や観光客の乗馬補助などの仕事を学びながら、一般企業での就労に向けて訓練をしているのだ。

そんな牧場が設立1年後に着手したのが、農業事業だった。

「牧場から出る馬糞は良質な堆肥になり、美味しい野菜が育ちます。その野菜の売り上げが、施設の収益として馬に還元される仕組み。この『循環型農業』がうちの農園の醍醐味です」

牧場だからこそ叶う『循環型農業』への新たな挑戦。そこに松尾さんは参加することになった。

施設裏の空き地からスタート
野菜作りとスタッフ指導に試行錯誤した新人リーダー

目指す農業像は描かれていたものの、立ち上げは難航した。松尾さんが就職した2020年4月といえば、新型コロナウイルスが流行し始めたばかりで、日本中が暗く沈んでいた時期。当初は、本来の農業仕事をスタートすることもままならず、作業スタッフとともにフェイスシールドを作っていたこともあったという。

5月から農業事業が開始され、リーダーとしてようやくスタートラインに立った松尾さん。だが、農地も決まっておらず、まずは施設の裏手にある空き地を耕すことに。砂地のような土を手作業で耕し、最初に植えたのは、土地の状態に左右されにくいポップコーン用のトウモロコシだ。その傍ら、牧場からでる馬糞から堆肥を作り、根気強く土づくりを続けた。馬糞の分解が進んだ1年後、やっと畑らしい土ができ、いくつかの野菜を植えられた。

痩せた土地と奮闘しながら露地栽培に励む松尾さんたち。そんな姿を見ていた地域の人が、厚意でハウスを貸してくれることに。少しずつ軌道に乗り始めたさんさん牧場の野菜は、地元企業や団体の協力を得て、スーパーや道の駅に置かれるようになった。

ブランド力アップのための珍しい野菜栽培にも着手した。紫色の葉物野菜やミニトマトより格段に小さいマイクロトマト、カラフルなグラスジェムコーンなど、見た目の変わった野菜は地元レストランから需要があり、今では直接注文を受けている。

「振り返ると本当にゼロからのスタートだった」という農業事業。松尾さんは、補助金申請方法も勉強し、必要な器具を1つひとつ増やしたり、パッケージデザインに補助金を活用して新商品の開発を手掛けたりと、できることをコツコツ積み重ね、事業拡大につなげてきた。

様々な商品の中で目玉の一つになったのが、マメ科の植物バタフライピーの花を使ったハーブティーだ。牧場スタッフが花を手摘みし、乾燥させ、ティーパックに加工、袋詰めまでの作業を行っている。このハーブティーは鮮やかな青色だが、レモンを入れるとぱっと紫色に変化する。益田市を流れる高津川の水を使って栽培されていることと、この地の日没の空の色が美しく変化する様子をイメージし「高津川マジックアワー」と名付けられ、ネット販売やふるさと納税で、現在、人気の商品となっている。

もちろん、農業そのものだけでなく、障がい者就労支援施設の指導員としての試行錯誤もあったという。スタッフの障がいの程度や特性に応じて、作業の割り振りや指導方法にも工夫が必要だったと松尾さんは語ってくれた。

「収穫できる野菜の色や長さを、的確に伝える方法を考えたり、得意な作業を見極めたりするために、スタッフに真剣に向き合いました。人や動物とのふれあいは苦手でも、草抜きなら黙々と続けられるという人もいます。特性を活かして、できることをしっかりやる。それがここでは叶えられています」

目標は、「循環型農業」を軌道に乗せること。
そして、農業の後継者不足を福祉で解決すること

農業事業に携わるようになって、およそ2年。「農業と福祉」、「人と動物」という関わりの中で、濃厚な時間を掛けてきただろう松尾さんに今の気持ちを聞いてみた。

「自分の工夫次第で、作物の外見や味が変化する農業そのものの面白さと、毎日少しずつレベルアップしていくスタッフの成長。この両方を感じられることが、今の私の大きなやりがいになっています。動物と人が共生している今の環境で、私自身ももっと成長したい。まだまだ挑戦をしていきたいですね」

そんな松尾さんが、この牧場でかなえたい目標は大きく2つある。

1つは、馬糞を使った農業を中心とした「循環型農業」を軌道に乗せること。ゆくゆくはすべての栽培に馬糞堆肥を活用したいというのが松尾さんの考えだ。また、地元のクラフトビール工場から出るカスや河川敷に生える雑草を混ぜて、新しい堆肥を作るという構想もある。

「馬糞の使い道を増やすということは、競馬を引退した馬や年老いた馬の居場所づくりにもつながるんです。設備を拡充させる必要はありますが、おじいちゃん馬やおばあちゃん馬が人参を食べて、出した馬糞が堆肥になり、美味しい野菜ができて、その売り上げで人参が買える。それってとても幸せな循環ですよね」

もう1つの目標は、農業の後継者不足を担えるような障がい者スタッフを育てる、というものだ。

「農業の担い手不足という問題を、福祉の分野で解決できたら、と思っています。すぐに就職するのは難しいかもしれませんが、ゆくゆくは一般企業での就労、就農につなげたいですね。雇用以外でも、人手が足りていない地域の農園に手伝いに行くような仕組みなどを、模索していきたいです」

農業と福祉が補い合う「農福連携」、環境に配慮した「循環型農業」。これらは今後、ますます進んでいくだろう。そして、さんさん牧場はそのロールモデルになるのではないかと感じた。

現在、周辺地域との連携により、「農福連携」や「循環型農業」に注力する松尾さんだが、一方で、農林水産省の農業女子プロジェクトや島根県版の農業女子にも参画し、情報発信や地域の女性農業者と交流を図ることにも積極的だ。今後は、そのネットワークからも新たな挑戦の種が生まれていくのではないだろうか。さんさん牧場と松尾さんのこれからの活躍にも多いに期待していきたい。
 

就農を考えている人へのメッセージ

私の就農の仕方というのは、いわゆる変化球だと思います。でも、こういった就農の仕方もあるんだと、多くの方に知っていただくことは大事なことではないでしょうか。農家出身で、実家にもいつかは戻るのかもしれませんが、就職して安定した給与と信頼できる同僚を得て農業に携わるこのスタイルに、今、私はとても面白みとやりがいを感じています。ぜひ、農業を福祉が、福祉が農業を支えるこの農園のような場所があることをもっと知ってください。そして、全国各地に同様の取り組みをする仲間たちが増えてくれると嬉しいです。