2023.03.27

家族の時間を大切にしたい
北海道へ移住し第三者継承で酪農家に。
加工品のブランディングにも挑戦

牧之瀬佳貴さん/牧之瀬牧場
農園所在地:北海道弟子屈町
就農年数:6年目 2018年就農
生産:生乳

通勤に縛られず家族と豊かな時間を。カナダで見た原風景

牧之瀬佳貴さん・智子さん夫妻は、第一子の妊娠、出産を機に千葉県から北海道の弟子屈町(てしかがちょう)へ移住し、町内の70代の男性から第三者継承という形で酪農経営を引き継いで、2018年から酪農を始めた。現在、20ヘクタールほどの牧草地で、ホルスタイン種約100頭、ジャージー種約15頭、ブラウンスイス種約8頭を飼い、年間400トンほどの牛乳を生産している。この他に、牛たちの飼料となる牧草を育てるための土地が約80ヘクタールあり、総坪数で言うなら30万坪超という、都市部の暮らしからは想像もつかないほど広大な牧場で酪農家としての暮らしを営んでいる。

農業の中でも、このようにある程度の規模で乳牛を飼い牛乳を生産する酪農業は、広い牧場や専用の設備も必要で、一見ハードルが高いように感じられる。牧之瀬さんはどのような経緯で酪農への道を選んだのだろうか?

移住前は千葉県に住み、東京の企業に片道約1時間かけて通勤していた牧之瀬さん。「あと40年この生活を続けたら、一生のうち何年分を通勤時間に費やすのだろう。通勤をしない方が豊かな人生をおくれるのではないか」と感じていたそうだ。通勤がなく、自宅でできる仕事といえば農業もその一つ。人生の時間をより大切なことに使いたい。そんな思いから、牧之瀬さんは転職先の一つとして農業を考えるようになった。同じく東京の会社に勤めていた智子さんも第一子を授かり、出産後も東京に通い続けられるのかと懸念していた。千葉の自宅の近くで仕事を探すことも考えたが、やりたい仕事に就けるとも限らず、長く続けられるイメージが湧かなかったという。

2014年に、たまたま東京で開催されていた北海道物産展を見ていると、「担い手育成センター」のブースが目に留まった。そこで話を聞き、牧之瀬さんは初めて「第三者継承」という就農の方法があることを知った。他にも全国移住フェアなどでいろいろな町の情報に触れ、野菜をつくる農業や地域おこし協力隊も含めて検討したが、智子さんの出産のタイミングや、町そのものの魅力も鑑み、弟子屈町で第三者継承による酪農に就業することを決断し、2016年に移住した。

「弟子屈町は、町がとても美しかったんです。摩周湖や屈斜路湖、温泉もたくさんあり、農業だけでなく観光業などいろいろな魅力が混ざり合っていて、農業を引退してからもきっと『この町に住んでいて良かった』と思えるだろうなと。移住をサポートしてくれる担当者の方にも熱意がありました

牧之瀬さんが酪農を選んだ理由はもう一つある。それは、かつて住んでいたカナダで見た、畜産物を扱う農家の幸せそうな暮らしの風景だ。

「彼らがとても充実しているように感じました。家も庭も広々としていて、庭で遊ぶ子どもの姿が楽しそうで、家族みんなが仲良くて。酪農に対して、僕にはそういうイメージがあったんです」

第三者継承をする時に重要なこと

牧之瀬さんに酪農家の1日のスケジュールを尋ねると、農家によって違うと前置きしながらも次のように話してくれた。

朝は5時頃から作業開始。牛たちに餌をやり、牛舎の掃除をして、搾乳を行う。7時半前には作業がひと段落するので、家族揃って朝ごはんを食べ、子どもを幼稚園へ送っていく。日中は季節によってやることが異なる。秋〜冬は比較的余裕があるが、春は牧草のための肥料を撒き、夏はその収穫に忙しい。収穫した牧草は乾燥させてからロール状に巻いてラップをする。午後2時半頃から再び搾乳を始め、夕方の5時過ぎには作業を終えて、子どもの迎えと夕飯の買い出し。7時前にはテーブルについて、家族みんなでごはんを食べる。

「こういう暮らしを僕たちは求めていました。家族で一緒に住んでいるのに、通勤や仕事の都合で顔を合わせないような生活はしたくなかった。今は休日こそ少ないけれど、毎日の中で家族の時間がきちんと取れているので、満足度は高いです」

酪農経営に必要な牛たちや設備、土地などを、牧之瀬さんは第三者継承という形で手に入れている。元々この牧場で生まれ育ち酪農を行っていた70代の男性が高齢を理由に引退するにあたり、主にJAが実務や資金面をサポートしながら、牧之瀬さんが一切を買い取る、という形で引き継いだ。経営資産の算出にあたっては、農地は町の農業委員会が、乳牛はJAが、農業用機械は中古機械業者が、牛舎等の施設は町の税務課が評価。農地は分割、その他は一括で購入し、その資金はJAの新規就農支援金などを活用した。

事業開始前には約8ヶ月間、町内の模範農家で研修を受け、その後、継承する農家に1年間研修に入って牧草の生産や牛の世話、搾乳、子牛の分娩などの全ての作業と経営を身に付けていった。研修期間中は弟子屈町とJAから合わせて400万円ほどの奨励金と、夫婦で月額27万円の実習手当を受け取ることができ、農業次世代人材投資事業準備型の資金も利用できたため、生活への不安はなかったそうだ。

資金面や就農のサポートは手厚い印象だが、第三者継承をするにあたり実際に難しかった点を伺ってみた。

「やはり前のオーナーさんと人間関係をうまく築けるか、という点ではないでしょうか。僕たちは比較的良い形で引き継げたと思いますが、人間関係で苦労してしまうと、継承の話自体がなくなってしまったりすることもあると思います。僕たちの場合でも、敷地内にある住宅も受け継ぐはずでしたが、現在も前のオーナーさんがそこに住み続けていて、僕たちは敷地内の別の場所に新たに家を建てて住んでいます。生まれてから高齢になるまで暮らした家や土地を離れて他の場所に行くのは、現実的に大変だと思います。ですが、このようなことが“聞いていた話と違う”というトラブルにならないように、間に入る関係者がしっかりと調整していくことが第三者継承の重要なポイントなのかなと思います」

加工品への挑戦で酪農の未来を切り開く

こうして新天地で家族と共に始めた牧之瀬さんの酪農経営は、開始から5年が経ち、安定してきた。牧之瀬さんの仕事の喜びとはどんなものだろうか。

「自営業なので、頑張った分だけすぐに収入に反映される所です。会社員の場合はたくさん売上をつくっても、それがそのまま収入になるわけではないですから。酪農家の収入は主に、牛乳を搾った分の売上と、お乳を出さないオスの子牛や引退する親牛を販売して得られる売上があります」

搾乳した生乳はタンクに保管し、2日に一度、ホクレン(北海道の経済農業協同組合連合会)に出荷している。ホクレンから各乳業メーカー等に牛乳が供給される仕組みだ。また、牧之瀬さんの酪農の規模だと、1年間に50〜60頭くらいの子牛が生まれる。だいたい1週間に1頭くらいのペースだ。毎年、飼っている牛の約2割程度を若い牛と入れ替え、年を取った牛は肉牛または別の酪農家向けに乳牛として販売している。販路や出荷量は酪農経営を継承した時からある程度決まっているので、収入の目処も立てやすいと言える。

一方で、酪農を営む上での苦労を伺ってみると、

「やはり休みが取りづらい所でしょうか。酪農業界には酪農家が休みを取るために依頼すると専門の作業員を派遣してくれる仕組みがあるんです。ただ、それも有料なのと、予約制なので、当日急に依頼して来ていただけるものではありません。だから風邪などで体調が悪くなっても、なんとか仕事をしないといけない。それがいちばん大変ですね」

近年は、コロナ禍による学校給食をはじめとした国内の牛乳消費量の低下の影響で国から生乳生産量に制限が出されたり、ウクライナ問題による飼料の高騰により売価を驚くほど下げても牛が売れなくなったりと、日本の酪農家は厳しい状況に追い込まれている。こうした状況の中で、牧之瀬さんは今後に向けた新しい事業として加工肉製品の開発・販売を始めた。

「うちは放牧をメインにしているので、『放牧牛』を謳った加工肉製品を札幌市内の業者さんと一緒につくりました。まず売り始めようとしているのが生ハム、チョリソー、ベーコン。加工のひと手間をかけて、みんなが思わず手を伸ばしたくなるような価値のあるものに変えて売っていこうと思っています。今飼っている牛の頭数を増やしても、それに伴って牛舎を増築しないといけないので、その費用の返済に何年もかかってしまいますし、餌代も右肩上がりなのであまり得策とは言えません。こうした情勢の中で活路を見出すには、価値ある加工品の開発しかないだろうと思っています。人はお気に入りのコーヒーの価格が少し上がっても買うけれど、牛乳の価格が上がると買い控えをする。みんなにどんな価値を提供したら喜んでもらえるのかを考えると、これからは“食べる”と“楽しい”を一緒に提供していく必要があると思います」

いつの日かカナダで見た畜産家の幸せな家族の暮らしのように、牧之瀬さんのつくる加工肉製品を通じて、みんなが笑顔になる温かい豊かな時間がたくさんの食卓に広がっていくに違いない。

就農を考えている人へのメッセージ

「まずは酪農の現場を見て、実際にどんなものかを感じてほしいです。特に酪農は、辛い、臭い、汚い、時間がないなどイメージが先行していて、そもそも敬遠される傾向があります。でも、実際に自分で体験して、自分がどう思ったのか、イメージとのギャップも含めて感じてみてほしい。僕らが本当に辛そうにやっているのか、それとも楽しそうにやっているのか。3日〜4日間程度の短期の酪農体験などはどこの町でもやっているので、そういうものを利用して、ぜひ見ていただきたいと思います。それだけでもきっとイメージが変わると思います」